正しい生き方 得な生き方
子供のころは、正しい生き方に憧れた。
正義のみかた、サンタクロース、
ひとから賞賛されるかっこいいヒーロー、そんなのに憧れた。
ナイチンゲールのように、ひとに尽くす天使のような女性、そんなのに憧れた。
お姫様にも憧れた。
お姫様とかそういうのは、正しい生き方をすればなれるって絵本に書いてあって、
だから、正しい生き方をしようと思った。
思春期くらいから、スクールカーストを肌で味わい、受験戦争にも巻き込まれると、
得な生き方が一番合理的なんだ、と思うようになった。
子供のときのように、正しい生き方をしても、自分の望みの姿にはなれないじゃないか。結局はおとぎばなしだったんじゃないか。
みんながいいと言われるものを目指すようになると、
そのための合理性を追い求めるのが一番合理的(笑)と思うようになった。
また、合理性は一般社会には汎用性があるものだと、感心することが多くなった。
合理性は汎用性があると思うようになると、そういう経験を重ねることが増え、
経験値から、合理性は絶対となっていった。
合理性のプリンシプルは、言ってしまえば、
得か損か。
今度は、得か損か、それを絶対的な指針として生きていくようになった。
そうして、自分が何を感じているのか、まったくわからなくなっていった。
正しい生き方がいけないのではなくて。
得な生き方がいけないのではなくて。
私自身を無視した生き方に、なんの正義があって、なんの合理性があったのか。
私は、私自身が感じて、私自身から欲するしたい正しい生き方をし、
私自身が感じて、私自身から欲する合理的なやりかたを選択し、
私自身に問うて、私自身を生きる、感じる、
それが、生きるということでなかったか。